文章についての文章

文章が好きだ。という文章を書こうと思う。

今はいわゆる絶賛スランプと言うやつで、一切文章が書けなくなっている。絵も描けない。何一つ捻り出せるものがない。

ので、ブログを書くことにした。特に評価や出来を気にしなくていい文章だから、気が楽なのだ。自分の書く文章は排泄物だと関口巽(百鬼夜行シリーズ)も確か言っていたが、ブログなんてのはその最たるものに違いない。ブログについて知った口をきいてみたが、フォロワーのブログくらいしか読んでいないので間違っている可能性は大いにある。ブログに限った話ではない。自分の中から出てくる言葉で確実に正しいものなんて一つも無い。虚言と妄言と大法螺で出来ている。教養が無いからやもしれない。教養、身に着けてえな~と思いながら何もしない日々が続いている。生きている価値がない。まことに。

文章が好きだ。小説が好きだとか本が好きだとかと言ったらそうではない。ただただ文章が好きだ。昔はよく本も文も読む活字好きなガキで、チラシやら教科書やらの活字を無意味に追うのが好きだった。文字は別に好きではなく、物語も特段好きではなく、だから文章が好きなのだと思う。最近本を全くと言っていいほど読めてないのでよくないですね。

文章が好きな理由は正直分からない。大体好きなものにいちいち理由を求めるのが嫌いだ。好きなんだから好き、でお終いだ。それ以外に何がある。何処が好きか、なら言える。書いた人間の食ってきたものが分かる気がするところだ。その人間が今まで何を摂取し、何を感じ、何を考えてきたのか、文章は顕著にわかる気がする。だから私小説が一番好きなジャンルなのかもしれない。太宰治の文章が一番良い。結局。ゲロや血反吐で書かれた文章が好きなのだ。苦しみの中で書かれた文章が一番良い。人間が苦しんでいる時に捻り出したものからしか真に美しいものは生まれないんじゃあないかとさえ思う。あくまで個人的な見解だ。まあそうは言っても実際作者が何を思って書いたのかなんて、書かれた時に実際にあった出来事と照らし合わせたって何にも分からないのだ。もしかしたら太宰治だってイエイイエイモルヒネ最高~というハッピーな気持ちで人間失格を書いていたかもしれないし、私の嫌いな村上春樹だって苦しんで悩んで喀血しながら書いているのかもしれない。村上春樹のことが嫌いなのは、小手先で書いているような感じがしてむかつくからです。同じような理由でで斜線堂先生の物語は好きだけど文章はあまり好きではない。文章はゲロで書いてくれ。全ての人間。

世界で一番好きな文章は何ですかと聞かれたら、太宰治の文章ですと返すが(しょうみ川端康成とかあそこらへんを挙げた方が人間性を信頼してもらえる気もするが)、実は自分の文章が世界で一番好きだ。自分の文章が本気で大好きなので自分の書いた二次創作小説を割と毎日読み返しているし、ふと自分の言い回しを思い出して涙が出てきたりもする。自分は自己肯定力の強い方ではないが、自分の書く文章に関してだけはあり得ないほど自信がある。自信と言うより自己愛がある。自分の文章の欠点は長い文章があまり書けないところくらいだ。プロットを立てて書いたりしないのが悪いのかもしれない。でも自分の書く心情描写、地の文はマジで最高なんだよな~解釈も良いし…………とにかく自分の排泄物が好きで好きで仕方ないのだ。自分の描く絵に関してもこうなれたらいいのになと思う。絵がうまくなりてえ~小さい頃から絵を描いてはいるが、なってる気がしない。お前が努力しないからだよバーカ。自己嫌悪と自己愛でめちゃくちゃになりそうなのでここらでやめておく。

あーあ。長い文章が書けるようになって絵が上手い最強の人間になりたい。

この文章も大して長くないな。書きたいところだけしか書けないから。文章ってどうしたら長く書けるようになるんですか?

お終い